人を無差別に殺したりエアガンで狙ったり
学校で飼われている動物が殺されたり
そういったニュースを見るにつけ
人間は残酷な生き物だなぁと思う。
捕食以外の目的で殺し合いをする動物は
恐らく人間だけじゃないだろうか。
「命の尊さを知らない」とマスコミでは報じられる。
その通りだろう。
昔からそうなのか、最近の傾向なのか、それは判らないが。
少なくとも自分は他者の「命」を大事に思っているつもり。。
それは子ども時代の経験からきているものだと思う。
小学生の頃、鳥がマイブームだった。
自宅ではセキセイや十姉妹が飼われていたが、
中でもオカメインコがお気に入りだった。
しかしある日の事件で、その鳥を殺してしまった。
いつもの様に鳥カゴを掃除していたのだが
誤ってオカメを逃がしてしまった。
慌てた自分はタモを持って近所を駆け回り、
近所の藪で捕獲したのだが、
オカメはそのショックで死んでしまった。
可愛がっていたオカメが死んだ事と
自分の手で殺めた事に、泣いた。
現在生まれて30年ちょい。あれ程に泣いたのは前にも先にも無い。
自分のこの手で殺したという思いは、今も残っている。
あれから自分は重い十字架を背負ってしまったように感じている。
以後、実家で犬を飼う時も、アパートで魚を飼う時も
その時の記憶が鮮明に蘇る。
自分は責任をまっとうできるのか、この汚れた手に動物を飼う資格があるのか、
自問しなかった事はない。
生きているものの命を大事にして、以後生きてきたつもりだった。
しかし数年前、大変な事が起こった。
実家から電話があり、
「飼っている犬が家主に吼えるので保健所へ処分を依頼した」
と言われた。
命を軽視するという憎むべき行為を、
血を分けてくれた親が行なったという事実に
自分は大きなショックを覚えた。
同じ血が流れている。。
汚れているのはこの手だけだと思っていたのに、
実は体内を流れる血さえもが汚れている。
原罪意識を持った。
冷静に考えれば、親にもそれなりの事情があったのだと思う。
保健所へ犬を持って行く人の数は世の中に決して少なくないので
ことさら自分の様に憤慨し憎む対象の行為じゃないのかもしれない。
そんな事をしていたら日本中で沢山の人を嫌いになってしまう。
しかし自分は許したくなかった。
人間のエゴで動物の命を絶つ事など決して認めたくなかった。
別に神様がいると言うつもりはないけれど、
数あるペットの中から、彼らが選ばれて自分の元へ来たのは、
いくつもの偶然と奇跡を経た結果だと思う。
その奇跡に感謝したい。
感謝し報いる唯一の手段は、責任を果たす事だと思う。
出会う奇跡への感謝は
ペットにだけじゃなくて、人間にも、物にも、皆同じだと思う。
出会えた事で幸せを感じるならば
出会えた彼らにも幸せになってほしい。
幸せを与えようと努力しても、ペットも人も、いつか別れる時がくる。
万事尽くした別れもあれば、誤って不幸に陥れるあっけない幕引きもある。
いずれにしても辛い。
そんな時、
「こんなに辛いなら出会わなければよかった」
と一瞬後悔する。
だけど、いつまでも消えない「出会えた喜び」を思うと
やはり出会って良かったと感じる。
自分はダメ人間だから失敗を繰り返すけれど
毎日努力をして、昨日より少しでもまともな人間になる事が
ひとつの罪滅ぼしであり、別れた後の感謝の表現方法だと思う。
輪廻転生が事実なら
またいつか再開できるかもしれない
成長してなきゃ、その時に合わせる顔が無いし。
話がずいぶん反れたので話の最初に戻るけれど・・
命の尊さとは、学校の授業で学ぶものではないと思う。
自らが体験し考え、実行し感じる事の繰り返しで
得られるものだと思う。
その機会は今も昔も減りもせず増えもしない。
違うのは、今の時代は結論を早く求めすぎている点だと思う。
悩み考える時間を与えず、
既成の概念をそのまま植え込もうとする教育者が多すぎる。
10人いれば10通りの感じ方があるはずなのだ。
正解はひとつじゃないのだから。
それぞれの結論へ向かうよう、現代社会は後押しをしてほしい。
学校で飼われている動物が殺されたり
そういったニュースを見るにつけ
人間は残酷な生き物だなぁと思う。
捕食以外の目的で殺し合いをする動物は
恐らく人間だけじゃないだろうか。
「命の尊さを知らない」とマスコミでは報じられる。
その通りだろう。
昔からそうなのか、最近の傾向なのか、それは判らないが。
少なくとも自分は他者の「命」を大事に思っているつもり。。
それは子ども時代の経験からきているものだと思う。
小学生の頃、鳥がマイブームだった。
自宅ではセキセイや十姉妹が飼われていたが、
中でもオカメインコがお気に入りだった。
しかしある日の事件で、その鳥を殺してしまった。
いつもの様に鳥カゴを掃除していたのだが
誤ってオカメを逃がしてしまった。
慌てた自分はタモを持って近所を駆け回り、
近所の藪で捕獲したのだが、
オカメはそのショックで死んでしまった。
可愛がっていたオカメが死んだ事と
自分の手で殺めた事に、泣いた。
現在生まれて30年ちょい。あれ程に泣いたのは前にも先にも無い。
自分のこの手で殺したという思いは、今も残っている。
あれから自分は重い十字架を背負ってしまったように感じている。
以後、実家で犬を飼う時も、アパートで魚を飼う時も
その時の記憶が鮮明に蘇る。
自分は責任をまっとうできるのか、この汚れた手に動物を飼う資格があるのか、
自問しなかった事はない。
生きているものの命を大事にして、以後生きてきたつもりだった。
しかし数年前、大変な事が起こった。
実家から電話があり、
「飼っている犬が家主に吼えるので保健所へ処分を依頼した」
と言われた。
命を軽視するという憎むべき行為を、
血を分けてくれた親が行なったという事実に
自分は大きなショックを覚えた。
同じ血が流れている。。
汚れているのはこの手だけだと思っていたのに、
実は体内を流れる血さえもが汚れている。
原罪意識を持った。
冷静に考えれば、親にもそれなりの事情があったのだと思う。
保健所へ犬を持って行く人の数は世の中に決して少なくないので
ことさら自分の様に憤慨し憎む対象の行為じゃないのかもしれない。
そんな事をしていたら日本中で沢山の人を嫌いになってしまう。
しかし自分は許したくなかった。
人間のエゴで動物の命を絶つ事など決して認めたくなかった。
別に神様がいると言うつもりはないけれど、
数あるペットの中から、彼らが選ばれて自分の元へ来たのは、
いくつもの偶然と奇跡を経た結果だと思う。
その奇跡に感謝したい。
感謝し報いる唯一の手段は、責任を果たす事だと思う。
出会う奇跡への感謝は
ペットにだけじゃなくて、人間にも、物にも、皆同じだと思う。
出会えた事で幸せを感じるならば
出会えた彼らにも幸せになってほしい。
幸せを与えようと努力しても、ペットも人も、いつか別れる時がくる。
万事尽くした別れもあれば、誤って不幸に陥れるあっけない幕引きもある。
いずれにしても辛い。
そんな時、
「こんなに辛いなら出会わなければよかった」
と一瞬後悔する。
だけど、いつまでも消えない「出会えた喜び」を思うと
やはり出会って良かったと感じる。
自分はダメ人間だから失敗を繰り返すけれど
毎日努力をして、昨日より少しでもまともな人間になる事が
ひとつの罪滅ぼしであり、別れた後の感謝の表現方法だと思う。
輪廻転生が事実なら
またいつか再開できるかもしれない
成長してなきゃ、その時に合わせる顔が無いし。
話がずいぶん反れたので話の最初に戻るけれど・・
命の尊さとは、学校の授業で学ぶものではないと思う。
自らが体験し考え、実行し感じる事の繰り返しで
得られるものだと思う。
その機会は今も昔も減りもせず増えもしない。
違うのは、今の時代は結論を早く求めすぎている点だと思う。
悩み考える時間を与えず、
既成の概念をそのまま植え込もうとする教育者が多すぎる。
10人いれば10通りの感じ方があるはずなのだ。
正解はひとつじゃないのだから。
それぞれの結論へ向かうよう、現代社会は後押しをしてほしい。
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